真清田神社真清田神社

真清田神社・愛知県

真清田神社鳥居愛知県一宮市真清田1丁目2−1
電話: 0586-73-5196
FAX: 0586-73-5198

真清田神社は、平安時代から大社として認められ、尾張国随一の鎮守様として地域の厚い崇敬を集めました。尾張国の一宮として社格を誇るようになりました。ここ愛知県一宮市は、この真清田神社の尾張国一宮からきています。
名古屋城築城後、初代尾張藩藩主・徳川義直1631年(寛永8年)に真清田神社の社殿の大修復を行なっています。また、尾張藩4代藩主の徳川吉通は1702年(元禄15年)に本殿を修造し、さらに1707年(宝永4年)には楼門を再建するなどしています。
また、1747年(延享4年)には尾張藩8代・徳川宗勝が本殿を修造、さらに1792年(寛政4年)にも尾張藩9代・徳川宗睦が同じく本殿修造を重ねており、真清田神社の尾張国一宮としての崇敬が伺えます。
その後、1932年(昭和7年)社殿修理や境内の整備が行なわれたものの、残念ながら名古屋城同様に、世界大戦中に空襲によって一部を除き、ほとんど焼失しました。

社名

真清田という呼称は、かつて木曽川の清く澄んだ水による水田が辺りに形成されていたことから、真清田と称されるようになりました。

真清田神社

祭神

天照大御神の孫、天火明命(アメノホヒカリノミコト)。尾張地方の開拓に力を尽くした尾張氏の祖先神。

再建と一宮

世界大戦による焼失後、1951年(昭和26年)に造営奉賛会が結成され、巨額の浄財を集めて昭和36年11月1日に本殿遷座が斎行され、1961年(昭和36年)に楼門や東神門、東手水舎、鳥居、1968年(昭和43年)には神楽殿、斎館、1984年(昭和59年)に参集殿、1988年(平成元年)に宝物殿が竣工しています。
ちなみに、今日、全国の市町村で一宮を名乗るのは7自治体ですが、市政を敷いているのは愛知県一宮市だけです。

真清田神社拝殿
真清田神社本殿

境内社など

真清田神社の境内地には3つ境内社がある。

服織神社(はとりじんじゃ)ほか

祭神は、天火明命の母神で萬幡豊秋津師比賣命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)、別名を棚機姫神(タナバタヒメノカミ)といいます。
最近は、出会いを求める若い女性に人気がある神社だとされています。
そのほかに、三明神社や三八稲荷社があります。

服織神社(はとりじんじゃ)

神水社

ここの水を飲み井戸に顔を写すと、身が清められるといわれます。ご神水を持ち帰ることもできます。

神水舎

真清田神社 社務所

愛知県一宮市、真清田神社 社務所

愛知県一宮市、真清田神社 社務所

真清探當證

尾張一宮であった真清田神社には「真清探當證」が伝えられている。この中に、
「億計王(第二十四代・仁賢天皇)・弘計王(第二十三代・顕宗天皇)二皇子の物語と、男大迹皇子(第二十六代・継体天皇)の物語」があります。

『五世紀の中頃、雄略天皇の時代。 二十代安康天皇が歿すると、皇位をめぐって大和朝廷は一大混乱に陥った。 億計・弘計二皇子の父、市辺押磐皇子は、大泊瀬幼武王(雄略天皇)に謀殺された。 二人は、従者たちと共に丹波国(京都府)を経て、尾張国(愛知県)へ逃亡する。 そして尾張国の一宮、真清田神社の近くで三十年あまりの辛苦にみちた歳月を過ごした後、清寧天皇の時に迎えられて都に還り、やがて皇位に就く。
 一方、男大迹王は、二皇子が尾張に潜伏していたとき、弟の弘計王の子として誕生する。 だが、雄略天皇の執拗な探索をおそれて、生後まもなく養父母に託され、美濃の山奥、根尾に隠れ住むことになる。 そして二十九年後、億計王が即位した時、はれて大和に上がるのである。』

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